行事解説
お盆
7月13日〜16日(新暦では8月13日〜16日)
に行われる先祖まつりの行事を「お盆」と言います。
日野のお盆は「蚕盆」と言い、
7月23日〜26日に行われます。
元々、日野では蚕の養殖が盛んで、
養蚕の繁忙期を避けたことが由来のようです。
現在、一般的に言われる「お盆」とは、
「盂蘭盆会(うらぼんえ)」という仏教行事が
元になり(あるいは習合し)、日本独自に
生み出された文化と考えられています。
ここでは、仏教の盆行事「盂蘭盆会」と
民間の盆行事「お盆」を分けて、
解説していきたいと思います。
仏教行事としての盆行事
(盂蘭盆会)
仏教行事としての盆行事を「盂蘭盆会」と言います。
この行事は、『盂蘭盆経』というお経の中に説かれる、
ある逸話に従って行われる法要を指します。
『盂蘭盆経』にはこのように説かれています。
お釈迦さまの弟子に目連という者がいました。
目連は心の優しい人で、亡くなった母のことを想って、
いつもその養育の恩を感謝していました。
ある日、目連は、
母がどの世界に輪廻転生したのかを
神通力(超能力)で調べてみました。
なかなか見つけることができずに、
恐る恐る地獄の世界の方に目をやると、
餓鬼道の世界の中で
母親が苦しんでいるのを見つけました。
「餓鬼」となってしまった者は、
人一倍食欲が旺盛になる一方、喉が極端に細く、
食事を摂ることができない、
飢えに苦しむ状態です。
目連の母は、この「餓鬼」になっていたのでした。
餓鬼道に堕ちたならば、
それだけの因縁(原因)があるはずです。
目連は神通力で理由を探りました。
そこには生前、目連の知らなかった
母の一面がありました。
目連に対してはこの上なく優しい母も、
他人に対してはひどい仕打ちを
平気でする人だったのです。
目連は居てもたっても居られず、
ご飯を盛って、餓鬼道にいる母の元に駆けつけました。
母は、息子に会えた喜びよりも、
食事に飛びつきました。
ところが、ご飯を口に運ぼうとすると、
ご飯がたちまち燃え盛り、炭となってしまいました。
餓鬼道の世界では、食事を摂ることが叶わないのです。
目連は嘆き悲しんで、お釈迦さまの元へ帰りました。
お釈迦さまは、「お前の母親の罪業は重く、
お前一人ではどうすることもできないだろう」と告げ、
7月15日(僧侶が一箇所に籠る修行の最終日)に
僧侶たちを供養するように説きました。
目連は、その通りに供養をすると、
供養を受けた僧侶たちの呪願によって
母を餓鬼道から救うことができました。
このように『盂蘭盆経』では説かれています。
仏教では、この故事にならい、
7月15日は父母に孝養の誠をささげる日
として重視されます。
この「盂蘭盆会」が
日本で祖先を供養する思想と結びつき、
現在のような、先祖の霊と迎えるという
「お盆」という行事になっていったとされます。
民間行事としての盆行事
(お盆)
「お盆」の期間には、亡くなった人たちが
死後の世界から現世に帰ってくる期間とされています。
風習として、「お盆」の期間には
家の仏壇に精霊を迎えるための
精霊棚(しょうりょうだな)をつくります。
精霊棚の飾りつけは多様ですが、
キュウリの馬とナスの牛、
刻んだキュウリ・ナス・洗米を混ぜたミズノコ、
水向けをするためのミソハギ
を供えるのが関東の地域では一般的です。
ご先祖さまが馬に乗って、
早く帰って来られるように。
牛に乗って、この世のお土産をたくさん持って、
ゆっくり戻れるように。
飢えに苦しむ「餓鬼」が食べ物(ミズノコ)を
食べられるように。
このような願いが込められた伝統
文化であると言われています。
お盆の初日(盆入り)の夕方、亡くなった人たちは
迎え火の煙を目指してやってくるといわれ、
迎える際には、お寺やお墓や家などで
「迎え火」を焚きます。
大昌寺では、提灯(ちょうちん)を
各家族が持って、寺よりご先祖さまを
家まで道案内してお迎えをしています。
【提灯は本堂にて一個300円で販売していますが、
ご自宅から提灯を持参していただいても大丈夫です】
元々、そのお迎えの作法としては、
23日のお盆入りの法要が終わった後、
本堂の灯明より手提げの提灯へと火を移し、
墓参りをして自宅へと提灯を下げて帰り、
自宅ではその火を仏壇へと移す。
このようにお迎えをしました。
現在では、山門にて火を一旦消して
自宅でもう一度提灯に火を灯し、
お仏壇へと火を移すという作法も
用いられます。
このように、亡くなった方を
今一度身近に感じて
そのご供養をしていくというのが
「お盆」の期間であると言えます。
また、お盆の期間はそれぞれの実家に先祖が
帰っているとされるため、
僧侶の訪問による「棚経」が行われます。
(ご要望の方は大昌寺までご連絡ください)
お盆に関する風習・作法はさまざまありますが、
必ず準備しなければならない
ということではありません。
亡くなった方々を弔い、感謝する気持ちを大切に
各ご家庭がご無理のない範囲で行いましょう。