【第1回】釈迦の生涯 ー2500年前の初期仏教ー
◯釈迦の誕生
釈迦(しゃか)の本名は「ゴータマ・シッダルタ」といい、紀元前5〜6世紀頃、ルンビニー(現在のインドとネパールの国境付近にあったとされる小国)に釈迦族の国王であるシュッドーダナ王(父)とマーヤー(母)の子として生まれました。マーヤーはルンビニー園という花園で産気づき、出産したといわれています。春暖かな4月8日のルンビニー園には花が咲きほこっていました。そのため釈迦が誕生したといわれる4月8日は、現在も「花祭り」としてお祝いが行われています。
釈迦は誕生した直後に立ち上がって7歩歩き、右手で天を、左手で大地を指差したまま「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と説いたとされます。
「私は最も尊い存在である」
言うまでもなく、これは伝説として語り継がれている有名なエピソードで、釈迦という存在の尊さを仏教特有の象徴的方法で物語っていると言えるでしょう。また、当時インド社会で最も尊い存在であったバラモン教の最高神「梵天」を否定して、仏教の独立宣言をするための言葉と捉えられます。
マーヤーは釈迦を出産した翌週、高熱により亡くなります。シュッドーダナ王は妻を失った悲しみに沈みますが、長らく子宝に恵まれなかったこと、待望の跡取り息子が誕生したこと、そして妻が最後に残した忘れ形見であったことから釈迦を深く愛するようになります。釈迦は専用の宮殿や贅沢な衣服、美しい女性たちを呼んだ豪華な宴会など、誰もが羨むような優雅な生活を送っていました。19歳になったときには従兄弟のヤショーダラーと結婚し、息子ラーフラを授かります。
そのような快楽に溢れた生活をしていた釈迦でしたが、ある日、転機が訪れます。釈迦は城の外を見に行きたいと思い、外出をしたのです。その際、城の東門で老人を、南門で病人を、西門で死人を目の当たりにして大きなショックを受けます。この世に「老」「病」「死」という避けられない苦しみが存在することをはじめて知ったのです。
「人は皆、老・病・死という苦しみを経験しなければならないのか」
絶望した釈迦でしたが、北門を出た際に、沙門(カースト制度に反対して、努力をしている人)を見て、自分の進むべき道を見出しました。
◯出家・修行
釈迦は29歳の時、「苦しみ」という存在の滅し方を求めて出家(しゅっけ)したのでした。このように釈迦が早くから人生の意味を定めて、修行の生涯に入ろうとしたことは多くの仏伝から伝えられています。生涯見ることのできなかった実母の存在や、故郷が渦中となる国同士の戦争などの環境が、釈迦の志を修行と哲学の世界へと向かわせたのだと言われています。城を飛び出した釈迦はまず、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという師のもとで瞑想修行に励みます。しかし、納得できる答えを得ることが叶わなかったことで二人の師の元を去り、「苦行林」という林中で6年間の苦行を始め、断穀と坐禅の修行に励んだとされます。
断穀とは、食物としての穀物を極限まで切り詰めて食事をしないことをいい、口にしたのは六年間「一麻一麦」であったとされています。
この結果、釈迦は骨と皮だけの姿に痩せてしまいました。断穀の精神には、自己の禁欲という意味のほかに、他の生物の生命を自身の口腹に入れて生命を繋ぐことへの強い懺悔の心が動いていたとされます。
自分の命を長えさせるために他の命を奪っているという現実を直視し、反省・懺悔(さんげ)を繰り返したところに、その後の仏教の基盤が築かれました。
また、苦行は「体を痛めつけることで心が綺麗になる」という思想に基づいて行われていたそうです。
6年もの長い時間、苦行を続けた釈迦ですが、納得する成果が得られず、苦行を放棄し、近くの川で身を清めます。衰弱し、今にも力尽きそうでしたが、通りかかった村の娘スジャータから乳粥(牛乳のおかゆ)を施され、なんとか気力を回復します。この時、「琴の弦はきつく締めすぎると切れてしまうが、緩く締めると音が悪い。琴の弦は、適度に締めるのが望ましい」というスジャータの歌を聴いたことで、「王宮での快楽」と「苦行という苦痛」の両極端な生活が間違っていたことに気がつきます。これは後々、「中道(極端に偏らない)」の教えとして重要な仏教教義となります。
◯悟りとブッダ
スジャータの働きかけで心身ともに回復し、決意も新たにした釈迦は「ピッパラ樹(現在では菩提樹と呼ばれる樹木)」の下で座禅を組み、瞑想を行います。
途中、悪魔や鬼神の脅しや誘惑(釈迦の心中における欲望との葛藤を象徴する出来事)を受けるも、釈迦はそれらを跳ね除け、ついに「悟り」の境地に至ります。これは35歳の時でした。
「悟る」とは、言語上では「理解する」という意味の動詞であり、「分かった!」という閃きです。そのため、釈迦が何を悟ったのか、という主観的な問題は言語化が難しく、釈迦のみぞ知るところです。現在でも悟りの内容には諸説あります。しかし、釈迦の発見がどのようであったのかは、その後の釈迦の布教の歴史を見ることで、学ぶことができます。
「私は悟りを開き、ブッダ(覚者)となった」
釈迦は悟りに至った直後、しばらくその場を動かずに悟りの境地に浸っていたと伝えられます。苦しみを滅する方法を理解し、その内容を深く味わい楽しんだということでしょう。悟りを得た直後の釈迦は、自身が覚った真理を他人に説いても、人々は理解できないだろうから布教は不要であると考えていましたが、ある出来事をきっかけに布教へと旅立つことになります。
◯布教の旅へ
伝説上、釈迦が布教への旅立ちを決意したのは、梵天(ぼんてん)というバラモン教の神が「この世の人々に、あなたの悟りを広く伝えてください」と勧められたことが所以とされています。「梵天という神が釈迦の元にやってきて、布教を勧めた」というのは、客観的に見たら「幻覚」と見なされるものかもしれませんが、インドの文化史的な観点から見れば、「梵天」は「バラモン教の象徴」と見ることができ、「仏教」が「バラモン教主流である当時のインド社会」に踏み出すべき状況になったことを象徴的に物語っているものと考えられます。
最初の説法の相手は、釈迦と修行を共にした5人の修行仲間でした。釈迦の説法を聞いた5人は感銘を受けて、すぐに釈迦の弟子となりました。この釈迦による最初の説法は後々「初転法輪(しょてんぼうりん)」と呼ばれることになります。
「転法輪」の「輪」というのは古代インドの環状の武器(殺人の道具)のことで、法輪は「仏の教えという武器」を意味し、その法輪を転じることは「世間の邪説や、人々の迷いを滅ぼす武器」となることを意味しています。
また、まさに坂道を転がる輪のように、釈迦の教えが時代と地域を超えて転がり続けていくという意味から、現代では仏教の象徴として位置付けられています。
この初転法輪から45年間もの間、釈迦はさまざまな地域を赴き、自らの教えを説いていきました。死を間際にした釈迦は「自灯明(じとうみょう)」「法灯明(ほうとうみょう)」という教えを弟子に遺しました。これは、誰かの言葉や命令に左右されることなく、自身の信じる道(自分の内にある明かり・自灯明)と釈迦の教え(法の明かり・法灯明)を道標にしなさいということです。現代では街灯があるため明かりが道標となることは少なくなりましたが、古代では街灯がなかったため、街の明かりが道標となりました。このように、自分の信じる道と仏教を頼りに道を進んでいくことを釈迦は勧めたのでした。
「私が説いた教え、制定した戒律、それらが私の死後、おまえたちの師である」
「怠ることなく修行を努めよ」
釈迦は最後、このような言葉を遺し、80歳でその生涯を終えました。
◯釈迦の死後
釈迦の遺体は火葬され、その遺骨は分散され、各地に遺骨を祀るストゥーパという高い建造物が建てられました。ストゥーパは「積み重ねる」という意味で、中国では「卒塔婆(そとうば)」の字が当てられました。卒塔婆はしだいに塔婆(とうば)と略した呼び方が多く使われるようになり、日本でも「塔」という言葉の語源となりました。
釈迦という人物はこの世から去ってしまいましたが、釈迦の教え「仏教」はその後の世界でも生き続け、多くの人たちから信仰を集めることとなります。
以上、釈迦の生涯をざっくりと解説してみました。
次回は、釈迦が「初転法輪」の際に説いた内容である「四諦(四つの真理)」と「八正道(八つの正しい修行法)」について簡単に解説したいと思います。
- 投稿者: YASUTAKA SUGIURA
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