牛秀上人と
『説法色葉集』

開山・牛秀上人

大昌寺は讃誉牛秀上人が開山した寺院とされています。牛秀上人は、大永四年(1524年)武蔵国立川郷に立川能登守清房(父)と鈴木佐渡守重親の娘(母)の子として生まれました。相即寺の忍誉貞安上人の下で出家し、蓮馨寺(川越)の開山である感誉存貞上人の弟子となりました。また、貞安上人が入寂すると相即寺(八王子)の第二世を後継します。永禄五年(1562年)頃、北条氏照が居城を滝山に移すと、氏照の帰依を受けた牛秀上人は、既に城下にあった極楽寺(八王子)の傍らに大善寺を建立し、天正三年(1575年)には長円寺を開創します。その後、北条氏照が新たに八王子城を築城し居城を移すのに伴い、天正一三年(1585年)、大善寺は極楽寺と共に滝山を離れ、相即寺・長円寺とも程近い八王子城下に移転したと伝えられます。

同年八月、牛秀上人によって『説法色葉集』が執筆されます。天正一八年(1590年)、秀吉の小田原侵攻に伴い、八王子城が落城し、大善寺と極楽寺は共に兵火に焼かれ、両寺は東に一里ほど離れた大横町に移ることとなります。また、八王子城の落城は凄惨を極め、牛秀は翌年より戦死者の供養のために十夜法要を修したと伝えられ、これが大善寺の「諷誦文十夜」の起源とされています。

その後、牛秀上人の徳を慕った日野の地元住人の懇請により、慶長元年(一五九六)※その地にあった金峯寺という天台宗寺院を大昌寺と改め、開山となり、慶長一〇年(一六〇五)六月一二日、八二歳でその生涯を終えたと伝えられています。

※大昌寺の成立年は1602年と紹介されていることが多いですが、古文書を精査・比較していくと、誤りである蓋然性が高く、正しくは、慶長元年(1596年)が大昌寺建立の年であると見られます。

『説法色葉集』について

『説法色葉集』は1585年に牛秀上人によって執筆されました。一般的に現代では「せっぽうしきようしゅう」と呼ばれます。

全十巻の内容を見ると、第一巻では、説法の心得・作法・極意が記され、第二巻から第十巻では、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三つのお経を中心に広く仏教教理が解説されています。牛秀上人は、僧侶の世俗化を嘆き、後世の浄土宗僧侶の育成を想って、この書を残したと見られます。

この『説法色葉集』は、91年後に『説法式要』として刊行され、全国の浄土宗寺院に流布されました。浄土宗は、この『説法式要』を布教伝道の先駆書として位置付け、浄土宗僧侶の多くが、ここから説法を学んでいきました。

『説法色葉集』と『説法式要』についてさらに詳しく知りたい方はこちらをご参照ください。